昭和四十三年十二月二十八日 朝の御理解

x御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」

 今年も余すところあと幾日ですけれども。みんな今年こそは良い年であるように願わん者はありません。明けてからそれを願うのでなくて、来年こそはと、言うものがなからにゃならないと思う。明けてから願うでなく、もうあと幾日と言う時に、来年こそはと。それには今年出来なかった、あれこれをです。詫びたり、又は願ったりさせて頂いて、来年こそは、と言う心をしっかり心に頂いて、新しい年を迎えさして頂かねばならんと思うのです。
 そういう意味で今日、私はこの御理解七十五節を頂きました。「人を殺すと言うが、‥‥‥‥神が見ておるぞ」。こういうところが、私共の日常生活にあったんでは、良い年にもなれんと思うのです。いつも人を傷つけ、いつも人を心で殺しておって、良い事の起ってくるはずはないですよね。目に見えて殺すのは、お上があって、それぞれのお仕置にあうがとおっしゃるが、いわゆる目に見えて苦しい思いをしなければいけない。ですから、そこのところを目に見えて、極楽ムードとでも申しましょうか、有難いなあ、勿体ないなあと言う雰囲気の中にです。
 私は生活をさせて頂く為にも、ここのところをですね。心で殺すのが神の機感にかなわぬ仰せられるのですから。ここをですね、人を生かすと言う事が、それも形で生かすだけではない。心で生かすと言う事。心で生かすと言う事。そこに私は、焦点置くような信心をしなければです。いかに今年は良い事の年と願っても、良い事にはなってこないですから。来年こそはと言うものがです。今年こそはと言うものの前になからにゃいかん。しかも私は、御理解百節にありますように、「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」と仰せられます。
 私は金光教の信奉者の家庭ムードとでも申しましょうか。こういうそのめでためでたのと言うようなものがね。家庭の中にみなぎらにゃいかんと思う。枝も栄える、葉も茂ると言う繁盛につながる為にもです。めでためでたのと言う心の状態が日々なからなければならない。明けましておめでとうございますが、元旦だけであってはならない。目が覚めたら、本当にお互い、心の中から祝福し合う。明けましておめでとうございますと言うような心の状態がね。それがお互いの日々の目覚ましとならにゃいけません。
 だからそこは言葉には言わなくてもです。心はなんとはなしにめでためでたのと言うような心の状態を、お繰り合わせを願わなければならん。そういう心の状態で相対する事、又は人に、そこに私はおめでたムードがみなぎると思うのです。それがです、相手を、そこから生かす事が出来ると思うのです。殺すの反対ですね。朝起きた時から、ブーッとしとる。何が気に入らんなら、あげんブーッとしとかにゃいかんじゃろうか。もう朝から、相手の心を傷つけたり、相手の心を暗くしたり、殺してしまう。
 そこんところをです、私共は、来年こそは、そういう行き方でいこうと言う。そういう信心が出来て初めて、今年こそは、わが身、わが家の上にも良い事がありますようにと願わせて頂いておるのに、相応しい事であると、こう思うのです。ただ正月明けてから、今年はどうでんこうでん、よか年であらにゃならんと、いかに力んでみたとこで、辛抱してみたところでです。もうそれじゃ遅か。来年こそはと、しかもそこのひとつの焦点と言うか、来年こそは、この行き方でいくぞと。
 そこに私はめでたいムードが出来てる。それが、いわゆる家繁盛、子孫繁盛につながるのです。金光大神は、どこ迄もこの家繁盛、子孫繁盛を願うて下さる。それをお取次下さるのです。心で人を傷つけ殺すのが神の機感に適わぬのじゃとおっしゃる。今日私が皆さんに聞いて頂いておる事をです。皆さんが本気でそうあろう。そう実行させて頂こう、と例えば言う事になってきたら、それが神の機感にも適うのじゃと言う事になってくるのです。
 その反対の事だから、神の機感に適うのじゃと言う事になってくるのです。殺すだけを神がみておるのじゃない。ああして、あの氏子は一切のもの、一切の人を生かしておる。これを神様が見過ごしなさるはずがない。成程これでは、家繁盛、子孫繁盛にもつながるだろう。御徳を頂く事も、神様の御信用もますます頂けてくるだろうと思うのです。ですから家族の者で話し合わにゃいかん。もう正月になってから、今年はいっちょこういう行き方で行くぞという前に、まあ、あと幾日かで正月という前にです。来年こそは、お父さんは、こういう行き方でいこうと思う。
 みんなもそのつもりでおってくれ。殺すのが神の機感に適わぬなら、生かすのは神の機感に適う道理であるから、お互い生かし合おうじゃないか。そこに焦点を置こうじゃないか。そして来年こそは、いよいよ良い年であるおかげを頂こうじゃないかと。私は話し合うとかにゃいかんと思う。そこで、そこのところをです。具体的<に>いく行き方ですが、「めでためでたの若松様よ」。私はそういう行き方にですねえ。金光大神がそれを教えられた時の気分を、何かこちらに通うてくるような気がする。
 めでためでたの若松様よと言うのは、どういう気分であろうか。心がめでたくなってくる。まあお神酒を頂きます。飲む程に酔う程に、心が和らいでまいります。心にうさを感じておった事も、何時の間にか直っていく感じがします。心が愉快になってきます。私は、めでためでたのと言うのは、そういうものでなかろうかと思う。酔狂が出るようになったらおしまい。けれどもお神酒を頂いて、飲む程に、酔う程に心が春めいてくる。心が豊かになってくる。おもしろい事のひとつも歌のひとつも歌いたいごとなってくる。私は、めでためでたのと言うのは、そういう事だと思うのです。
 ひとさし飲まんか、と言う時だと思うのです。そういう雰囲気がです。めでためでたのと、こう言うのだろうと思うのです。そこで信心とは、結局有難くならせて頂く稽古とおっしゃるのですから。いわゆる有難き、勿体なき、おそれおおきの、みきを頂くと言う事が、そうなんですけれども。そこまでもっていく為の精進。それがお互い必要になってくるのです。そこにお互いが力を合わせおうていかにゃいかんのです。私は先日、ある高貴な方のお伴をして、原鶴へ参りました。
 そこでお風呂にでも入らせて頂き、お神酒の、お相手でもさせてもらい。それこそ飲む程に、酔う程に一同気分がようなってまいりました。主客であられるお方達は、相当の御年配でしたが。私共は、その畏まっている訳です。その雰囲気を、少しでも、和らげようと言うお気持ちだったのだと思います。私が大学時代、授業料を納めて習ったひとつ芸を持つとる。それを皆さんに披露しょうと言うので、綱渡りをして見せられました。そうしたら、奥様であるところのおばあさまがです。そうですか、それじゃあと言うのでね、綱渡りの紐を作られるんですよ。
 いわゆるその綱渡りのお手伝いをされる訳です。そして私が綱を引っ張っときましょうと言うて、そしてそれを前に、それでは先生、着物の丹前を着ておられましたから、それじゃいけんから、着物をかえなさいというのである。もうその綱渡りをする前にちゃあんと着せかえてしまわれました。やっと着物着て袴はかせられて、足袋をはいて、そしてその綱をいくつも繋いどいて、さあ綱の準備が出来ました。さあどうぞと言う訳なんです。
 大概の者がですね。もう先生そういうような事はおよしなさいと、家内が言うんですよ。ところがですね。自分もその綱を引っ張っておってです。<身>手振りよろしく綱渡りの真似をされるのは、自分も楽しい風です。そして終った時には、きちっと座についてから、もう羽織ひとつを引っ掛けられれば、いつでも帰られるという準備をされました。もう私は、これには本当、恐れ入ってしまいました。夫婦というのは、こういう風になからにゃいけないと思いました。幾日間か、その御夫婦のあられ方を見せて頂き、聞かせて頂き、本当の夫婦と言うのはこれだなあ。
 これならいよいよめでためでたの雰囲気であり、いよいよ極楽ムードとは、これだと私は思いました。ああたばっかりは、いい年してそげなこつしてから、人が笑いなさるですよ、と言うていいはず。この辺の言葉で言うと。そして済んでから、皆様お粗末でした、と言われるのは、奥様の方なんです。もうどうしてああいう風にやっていけるのであろうか。信心でなからにゃ出来ることじゃないと、私は思いました。
 『昨日、長田先生が見えられてお届けされる中に、あちらでは、長田先生の御主人が朝の御祈念をつかえられる訳なんです。zところがお知らせ頂いて、長田先生御自身も、ちゃんと紋付、袴を付けて、そして奉仕の御用なさるがよいと言う意味の事を頂いておられます。そしたら私が頂きますのに、z「本当な事と良い事がひとつにならなければいけない」と頂いた。皆さん、良い事と、本当の事は違うんですよ。本当な事と、良い事がひとつになる。そこから良いものが生れてくる。これが本当だと言いよるとですね。それこそ地に走れば固くなるのである。本当な事ばっかり言うたり、したりしてるとですね。そこが人間ですから、言わば本当に、几帳面と言や、几帳面でしょうけれどもです。そこには何の潤いもなくなってくるです。私は、そういう例を知っております。だから几帳面だけじゃいかん。そこに破った美しさとでも申しましょうか。本当な事ではないけれども。いわゆる良い事なんです。まあ破調の美とでも申しましょうか。例えばみんなが洋間に来てから言うのです。
 私は洋間に、一本の和風の軸をかけております。洋間に和風の軸をかけるなんて、しかも茶室にでもかけるようなものがかかっておるのです。ですから、いよいよそれは、もう洋間にはピッタリこない、本当言うたら。ですから、その洋間〔の〕雰囲気を破るような中に、破った美しさとでも申しましょうか。なんとはなしに東洋的な、応接室と言うか、よい雰囲気を出しております。言わば本当な事じゃないけれども。それはよい事なんです。そういうようなものが、お互いの生活の中にも必要である。
 長田先生それはどうでも、親先生が御結界に座られるなら、せめて午後からだけでも、朝の御祈念を、先生が仕えられるとするなら、夜の御祈念は、先生あなたがなされてはどうですか。それは、本当の事は、教会長がなさる事が本当かもしれんけれども。副教会長である先生あなたが奉仕をされると言う。その中にです、信者もかえって喜ぶおかげが頂けるのじゃなかろうか。』例えて言うなら、私の方でもそうです。四時から五時の間の御祈念を私がする。
 だから五時の御祈念も、私が奉仕すると言うのが本当だけれども。若先生が五時からの御祈念をすると言うのは、それは良い事なんです。言わば、私が本当の事をするよりも、神様は喜んで下さるかもしれない。御信者の皆さんもそれが有難いであろうと、よい雰囲気が生れてくるのです。私が四時の御祈念を、これは私一人の御祈念だから、と言うてさせてもらう。そして五時からは皆さんと一緒に、また大祓を奏上させてもろうて、皆さんと一緒に御祈念をさせてもらう。
 これが本当なんだけれども。それよりも若先生が五時からの御祈念を受け賜っておると言う事がです。私は、合楽の朝の御祈念の有難いと言うか、言うなら有難いムードがかえってあると言う感じがするのです。言わば良い事と本当な事がひとつに行なわれている。お互いの家庭の中にもです。そういう本当な事と良い事がひとつになっていく。そこから良いムードが生れてくる。それを私は、今日はめでためでたのと言う雰囲気だとこう感じました。例えて言うなら、ある時には親が子供に機嫌を取ると言う事もあっていいと思うのです。
 子供の方から折れてこなこて、と言う。成程それが本当なんです。けれどもです、その本当を破って、親の方が詫るとか、親の方から機嫌を取ると言う。そこから、私は良いムードが生れてくると思うのです。こうしなければならんと言う本当な事、を良い事によって、それが、かもされてくる雰囲気とでも申しましょうか。この辺のところをです。私は、来年こそはと言うならです。いわゆるお互いが枝も栄える葉も茂ると言う繁盛を願わない者はないのですから。それ前に、まずお互いの心の中に、いわゆるめでためでたのと言う雰囲気を自分の心の中に作らなければいけません。
 そのめでためでたのと言う雰囲気をです。良い事と本当な事が一緒になって、そこには、七十五節であるところの、人を殺すと言うのじゃない。人を生かす働き、相手を、物を事柄を、生かしていく雰囲気を作ると言うおかげを頂けばです。心で殺す事が神の機感に適わぬなら、心で生かす事が神の機感に適う事になる。心で殺すのは、神がみておるぞと言うておられるがです。心で生かしていく事をです。そんなら、神がみておるぞと言う事にもなるのです。そこに私はいよいよ神様のお喜びと言うか、御信任と言うか、それを受けていくおかげが受けられると思うのです。
 どうぞ人、物事一切そうですけれども。生かすと言う働き、その中に今日私は、本当の事と良い事が出来ていくところの精進。めでためでたのと言う為には、雰囲気を作っていく為にです。信心の喜びがそれが、なんにもこだわりなくです、出来ていく。人を生かす事ばあっかりで自分だけはつまらんと言う事はありません。しかも人を生かす事によって、自分が生かされておる事を感じます。私が先日、原鶴で体験させて頂きました。その奥さんは、御主人を生かす事ばあっかりのようですが、その生かす事だけに努めておられる奥様がです。
 生き生きとして、自分も生かされておる喜びと言うか、楽しみを感じておられるのを、そこから感じるのです。人の犠牲になっておらんならん、と言うのではなくて。いかにも自分が人の犠牲になっておるようであるけれども。自分自身の為にそれが、私を生かしてくれるものは、生かした後に、生かされておると言うのが本当の事であると言う事を、です。今日は聞いて頂いた訳です。どうぞ。